地域のお菓子について

奈良県はお菓子の故郷です

i01  古代人は、米、粟、麦の主食の他に、野生の木の実や果実を食べていました。
菓子は果子という字がもとです。菓子の始まりは、「古能美」(このみ、木の実)または「久多毛能」(くだもの、果物)であったろうと思われます。人工的に手を加えた今のお菓子の原形は奈良・平安時代に輸入された唐菓子に始まるとされます。自然の果物に対し、こうした人工的なものがやがて「菓子」と呼ばれるようになりました。

i02  菓祖神にまつわる伝説を紹介しましよう。「垂仁天皇の頃、天皇は田道間守(たじまもり)に、常世の国(中国南部からインド方面)の不老不死の理想郷に行き、“ときじくのかぐのこのみ”(非時香具菓、今の橘)を求めに帰化人の田道間守を遣わされました。艱難辛苦の9年間シナとインドとを経た末ようやく手に入れた木の実を持ち帰ったところ、すでに垂仁天皇は崩御され、嘆き悲しんだ田道間守は垂仁天皇の御陵にもうでて、持ち帰った橘の半分を墓前に捧げその場を去らず、絶食数日、殉死した」といわれています。 後に聖武天皇が「橘は菓子の長上、人の好むところ」と言われ、古代の菓子が「果物」の意味もあるところから、田道間守はを菓祖神として各地の菓祖神社に奉られています。

奈良時代-600年代(推古天皇の頃)小野妹子などが遣隋使として大陸に渡り、さらに文武天皇の頃遣唐使、粟田真人が渡るなど中国大陸との往来が盛んになり、大陸の文化が伝えられました。その中で8種の唐菓子(からくだもの)と14種の果餅(かへい)がその製法と合わせ伝られました。唐菓子とは、米粉、小麦粉などに、水あめ、蜜、あまずらなどの甘味や塩味をつけ、また油で揚げたりしたもので、在来の「ほしいい」など単純な穀物の加工品に比べ味、形、加工方法など優れたものがあり、宮中や貴族社会から次第に一般へも普及し、祭神用としても尊ばれ、現在でも神饌(しんせん)として一部の神社(熱田神宮、春日大社、下賀茂神社、八坂神社など)で見ることが出来ます。

i03  菓子の発展に大いに役立ったのが、お茶の伝来と普及があげられます。お茶が伝来したのは、奈良時代(聖武天皇の頃、729年)遣隋使により伝わり宮中で引茶の会が催されたとありますが、本格的に茶を栽培し普及に力を注いだのは、1191年(鎌倉時代)栄西上人が宋から茶苗を持ち帰えったことに始まります。茶を楽しむ茶道が始まり、太閤秀吉の桃山時代に至ってその極に達しました。 この茶道の隆盛とあいまって、点心としてのお菓子が求められました。点心も中国から渡来したならわしで、当時の点心は第1が羹類、第2がめん類、第3がまんじゅう類、第4もち類でした。

まんじゅうは室町時代(1341年)に林浄因によってもたらされたものです。
林浄因は中国浙江省の人で日本に渡来し、当時中国にあったマントウ(小麦粉をこねた中に肉などを詰めた食べ物)を真似て中身に小豆を煮たものを詰めたまんじゅうを作りました。そのまんじゅうは「奈良饅頭」と呼ばれ将軍や天皇にも献上されるほど評判になりました。最初の紅白饅頭を作ったとも言われている。浄因は日本に帰化し、日本人の女性と結婚して、林神社のある林小路に住みました。この地奈良市林小路町には林浄因を祭る林神社があり、毎年4月19日に「まんじゅう祭」が催されます。この日には浄因の子孫にあたる東京の塩瀬総本家はじめ全国の菓子業者が集まります。

この時代から近世にかけて、お菓子を作る技術が各地に伝わり、さらに磨きがかけられ、形の美しい、味覚的にも優れたお菓子が作られるようになり、今の和菓子の源流となって現在に繋がっています。 京都、江戸、更に金沢、松江など全国にその地独特の菓子文化は広がりを見せますが、ここにご紹介したように、お菓子のふるさとはやはり、ここ奈良です。そして奈良では、「青丹よし」や「三笠」といったその歴史を物語る名残りをもったお菓子が沢山残っているのです。